夕暮れの校庭。
ぼんやりと三上は流れていく薄紅色の雲を見ていた。
「三上」
かかった声に、三上は振り返る。
黄昏時の赤金色の輝きがその整った白皙の面を彩り、揺れた髪に滲んだ神聖な美しさに、名前を呼んだ辰巳は刹那眼を瞬いた。
夜を映し込んだように深い瞳には硬い拒絶の彩。それが辰巳を見留めて、僅かに緩む。
黙ったまま三上はまた空に眼を戻した。
羽根でも生えていそうだな、とメルヘンチックなことを考えて、辰巳は苦笑する。
静かに三上の横に並んで同じように空を見上げた。
ゆっくりと、けれど確実に暮れていく空気。
様々な光の粒が織り混ざった、幻想的な色彩。
緩く吹き抜けた風に、体の中が透き通っていくような気がした。
「三上、帰ろうか」
「……ああ」
一つ瞬き、三上は辰巳に眼を向ける。
半年前に比べれば幾分と柔らかくなった瞳の彩に、辰巳は知られないように安堵の息を漏らした。
思い出すと、いまだに鳥肌が立つ。
初めて三上と相対した時の、あの漆黒の闇。乾いて昏く深く重く鋭い、刺し貫くような、夜を内包したその瞳。
三上は話したがらないけれど、おそらく前の学校でいじめが存在したのだろう。
体育着に着替えるときに偶然眼にした、痣の痕。大分薄れていたとはいえ数は多かった。そして荒んだ瞳の彩と細い躰が漂わせる警戒心。
何故彼がそんな状況に身を置くことになったのかは解らない。
辰巳から見れば三上は口は悪いが心根の優しい少年だ。おそらくその口の悪さも元からのものではなく、自己防衛の手段なのだろう。時折発言後に痛みを浮かべる瞳に、辰巳はそう思う。
「辰巳?」
回想に耽っていた辰巳は、怪訝そうな声にはっとする。
見上げてくる瞳になんでもないのだと首を振り、辰巳は太陽に背を向けた。一泊遅れて三上が追う。
「辰巳、香兄がお前に逢いたがってた」
「そうか」
「寄ってくだろ?」
どこか不安げに確認する三上に、辰巳は黙ったままゆっくりと頷いた。
窓の外に見える空は一面雲に覆われていて、いつ雨が降り出してもおかしくない様子だった。
国語教師が詩を朗読する声が、感情の上を上滑りしていく。
窓際最前列。
眼につきそうで死角になり易くもある自席で、中西はぼんやりとグラウンドを見つめていた。性格にはグラウンド上で楽しげに言葉を交わす三上と渋沢を、である。
一年の時から同室で、また部を率いていく中心人物だ。仲が悪くては困るのだが、中西にとって面白くないのも事実だった。
それは中西が三上を大切に想うのと同時に、渋沢とあまりいい関係を気づいていないからだろう。
小さくため息を吐き、中西は眉間に皺を寄せた。
何を気にしているのかと、中西は微かに苦笑する。
今日の午後、三上が共に行くことを求めたのは自分であるのに、この腕の中に、三上は無防備に躰を預けてくるのに、何を不安になっているのだろう、と。
宙に浮かせていた視線をグラウンドに戻すと、不意に三上が顔を上げた。眩しげに空を仰ぎ、次いで視線を感じたかのように中西の方に眼を向ける。
手をかざし眼を細める三上に微笑み、中西は教師に解らないように軽く手を振った。
応えるように手を上げ、三上は名を呼ばれて授業に戻っていく。
口許を微かに笑ませたまま中西はゆっくりと教室に意識を戻し、退屈な授業に耳を傾けた。
4限目の数学が終わり、三上は疲れたようにコキコキと首を鳴らした。
右上がりの几帳面な字と数式の並ぶノートを、眉を寄せて閉じる。普段しないことをしている自分に抱えている不安を感じて、三上は小さく嘆息した。
一度眼を閉じ、心を落ち着ける。
これから行く場所。その後、中西に打ち明けようとしていること。
キリキリと、心が痛くなってくる。
けれど、逃げ出してはいけないのだ。今を逃したら、きっともう前には進めない。
瞳を上げ、荷物をまとめて立ち上がる。
「帰んの?」
気がついて声をかけてきた近藤に、三上は頷いた。
「部活も休むから、上手く言っといて」
「体調でも悪いのか?」
「ただのサボり」
答えたところで視界の端、教室の後ろ扉から中西が顔を覗かせた。
眼を向けた近藤はにっこりと笑みを返されて適当に手を振る。
「中西も一緒?」
「ああ。じゃあ、俺行くから後頼むな。特に渋沢」
仕方ねぇなと請け負った近藤に軽い挨拶を返して、三上は教室を出た。待っていた中西が微笑む。
三上はす、と眼を逸らした。
「目立つから下駄箱にいろっつったろ?」
「俺が下駄箱にいたら先生に捕まっちゃうでしょー?」
「お前常習犯だもんな」
「三上も他人(ひと)のこと言えないと思うけど?」
くすくすと笑う中西に「行こうか」と促されて、三上は頷いた。
昼食時の騒がしい校内を、二人は静かに出ていく。グラウンドのぐるりに沿って植えられた木々の間を抜けて、乱暴にも門を乗り越えた。
一度寮の方へ戻り、寮母に気づかれないように外に設置されている錆びついた螺旋階段を上る。
着替えに戻った自室で三上は机の抽斗から煙草の箱を取り出した。一本の煙草と折りたたまれた紙の入ったそれは、三上のものではない。
眼を閉じ、瞼の裏に甦る人に、ズキリと心が痛んだ。
溢れそうになる想いを、唇を噛んで押し込める。
泣いてはいけない。
泣いたら、ようやくついた決心が涙と一緒に流れていってしまいそうな気がした。
上から下まで完全に黒で固めて部屋を出ると、既に非常口の扉に凭れて中西が待っていた。背を離して差し伸べられた手を断って、三上は外に出る。追ってくる気配に、訳もなく安堵した。
電車に乗るまで、互いに無言だった。
カタカタと、小刻みに揺れる。隣に座っている三上の肩も、景色も、自分の手も。
「中西」
不意に三上が名を呼んだ。
「うん?」
「どうして、一緒に来てくれんの?」
「どうしてって、どうして?」
意味を捉えかねて、中西は反問した。
流れる景色をぼんやり見送っていた三上が顔を上げて、視線が絡む。
「三上?」
「……行き先も理由も、俺言ってねぇもん。俺だったら拒否る」
きっぱりと言い切った三上に、中西は苦笑した。
視線を絡ませたまま、中西の指が三上の頬に触れる。三上は微かに肩を震わせたが、逃れることはしなかった。
頬を撫で、髪を梳き、中西は微笑む。
「基本的には俺だって拒むよ? でも三上だから。誘ったのが三上だったからくることにしたの」
「なんだよ、それ」
「三上が大切だってこと」
にっこりと伝えて、中西は髪から手を離した。そのまま三上の手の上に己のそれを重ねる。
三上は手を返し、指を絡めた。
「兄貴がいたって、言ったことあるだろ?」
ぽつりと三上が言葉を発した。
首を傾げて、中西は三上の瞳を覗き込む。すぅ、と感情の失せた瞳の彩に、心臓が鈍く痛んだような気がした。
「三上?」
「今日、命日なんだ。香兄の」
表情を消したまま、三上は言う。
僅かに重ね合わせた手に力がこもって、三上の緊張はそのまま中西に伝わってきた。
「うん、それで?」
手を握り返し先を促す中西の声に、三上の瞳が安堵に緩んだ。
愛しいと、心が叫ぶ。この場で抱き締めてしまいたい程に。
「香が死んで、俺の世界は壊れた。」
「うん」
「香のこと、好きだった」
そこで三上は言葉を切った。中西の反応を窺うように、三上は瞳を瞬く。
「……そう」
ぽつりと、それだけ答えた。それしか、答えられなかった。
三上が自分に誰かを重ねていることを、中西は知っていた。愛惜しそうに細められるその瞳の先に、三上が時折自分ではない誰かを求めて、その一瞬の裏切りに酷く傷ついた瞳をすることさえも。
好きすぎて三上の本音を知るのが怖かったから、今まで何も訊かずにきたけれど。
三上のすべてが知りたくて、今日共に来ることを許諾したけれど。
知りたくない思いと知りたい思いとが絡まって、避けてきたそれに心が痛んだ。
過去のことに、捉われはしないと思っていたのに。何があっても、許容できると思っていたのに。
「中西……?」
不安そうに名を呼んだ三上に、中西は微笑む。
「今は?」
空いているほうの手で三上の黒髪に触れる。
三上は俯いた。
「……中西、俺は、」
言い淀む三上に内心の動揺を押し隠して、中西は首を傾げる。
「三上?」
名を呼ぶ声に顔を上げ、三上は瞳を揺らした。
「俺、怖いんだ」
「うん」
「俺は、人を好きになってもいいのかな……」
弱々しく吐き出された言葉が、鈍く心臓を打った。
意味は捉え切れなかった。けれど三上が口にしたそれは、彼が抱え込んだ過去の闇の一端であることは理解った。
知りたいと、理解たいと、中西自身が求めていたもの。
しかし突きつけられたそれはあまりにも重いものだった。
本質的で重苦しくぬるまった、三上の中に閉じ込められたどうしようもない痛みは、中西がかつて抱えていたそれと同じものだったから。
見つめる先で、三上がきつく唇を噛み締める。
中西はふわりと手を伸ばし、三上の頬に触れた。
「どうして、そんなこというの?」
「俺の大切な人は、みんな死ぬんだ。母さんも、香も、樹も……!」
「三上……」
苦しげに表情を歪める三上に、中西は何も言えなかった。
涙をこらえて肩を震わせる三上を抱き寄せる。
三上の手がぎゅうっと中西に縋った。
「中西までいなくなったらどうしよう、って。おまえなしで、俺どうしたらいいんだよ……っ」
耳に届いた悲痛な叫びに、ズキリと躰の奥が軋んだ。
愛しいと思った。
欲しいと思った。
泣かせたくなかった。
「死なないよ」
言葉が零れ落ちる。
「俺は、死なないから。三上をおいてなんて逝かない。三上を一人になんてしないよ?」
縋りつく三上の手に力がこもった。耳許で同じ言葉を繰り返しながら、中西は三上の髪を撫でる。
「なかにし」
「うん」
「俺、中西のこと好きでも、いい?」
「いいよ」
「香のこと、ほんとは今も忘れらんねぇけど、でも俺、中西のそばにいたいんだ……っ」
卑怯だと、理解っているけれど。
受け入れてもらえる願いではないかもしれないけれど。
けれどそれでもそれは三上の本心だった。中西を乞う想いは、紛れもなく愛だった。
「うん」
中西は頷いた。
一番じゃなくてもよかった。欲してくれるだけで、うれしかった。
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