雨が降っていた。
義兄である香の墓参りを終え霊園を出たところで突如降り出した雨はどんどん勢いを増していき、雨宿りのできる場所を見つけたときには二人はぐっしょりと濡れそぼっていた。
家が近くだからという三上に連れられ、傘も差さずに雨の中を黙って歩く。
雨の層を重ねて見る三上の背からは、今朝まで纏っていた拒絶の彩が薄れかけていた。
初めて訪れた三上の家は大きく、生活感のない無機質な空間で、どこか中西の実家と共通したものがある。それ故に、僅かな空間の歪に残る痛みに、中西は気づいてしまった。
三上の部屋の窓から雨に呑まれた庭を眺める。
シャワーを借りて温まった躰に、外の冷気が窓越しに伝わってきた。
雨音に塗り込められた室内は暗い。
ぼんやりと視線を巡らせて、先程から気になっていた机の上の写真立てに軽く下唇を吸い込んだ。見ないフリをしてきたけれど、諦めたように息を吐いて立ち上がる。
「……これかが、香……?」
まだ幼い三上を腕に抱え込むようにして笑う、三上と良く似た人。
中西は指先でそっとその輪郭を辿る。硝子に阻まれた向こう側で、香が自分を牽制しているように見えた。
「何、してんの」
「三上」
不意に愛しい人の声が聴こえて、中西は振り返る。
濡れた髪をそのままに麦茶のグラスを載せた盆を持った三上が、入り口で硬い表情をしていた。中西は静かに写真立てを机に戻し、彼にしてはぎこちない笑みを浮かべた。
「この人が三上の大切な人なんだな、って」
「なかにし」
「だいじょうぶ。過去のことだもの」
安心させるように笑って、中西は「おいで」と手を伸ばす。促されるままに三上は机に盆を置いて、中西の腕に身を預けた。
伝わる体温に、ほっとする。
「三上」
「ん」
「三上が好きだよ、俺。だから今三上のそばにいられるその事実だけでいいんだ」
さらりと髪を撫ぜ、中西は三上の目許に優しく口接けた。
「なかに」
「忘れたい? 香のこと」
囁かれた言葉に、どくりと脈が大きく打つ。
中西は三上の表情を覗き込むように首を傾げた。
動揺に瞳を揺らし、三上は逃れるように顔を俯ける。眼を細め、中西は躰を離した。
反射的に顔を上げた三上の額に触れ、中西はその動きを封じる。こつん、と額を合わせ、至近距離から瞳を捉えた。
「忘れさせてあげようか」
ぴくりと、小さく肩が揺れる。
中西は静かに微笑んだ。
「なかにし……」
弱々しく、三上が名を呼ぶ。
中西は耳から頬骨、顎へと手を滑らせ、親指でその唇を撫でた。
指先で促して軽く開かせた唇に、唇で触れる。
二人の間で暖かい息が混じった。
「好きだよ、三上」
「……うん」
「今すぐなんていわない。いつかは俺を、一番にしてくれる?」
吐き出された願い。触れている手から伝わる、微かな震え。
三上はきゅ、と眼を瞑った。
「うん」
愛しかった。
大切だった。
失いたくない、かけがえのない手だった。
「……すき」
自然と言葉が零れ落ちる。
中西の中で感情が弾けた。
「三上、我侭言ってもいい?」
「なに」
「三上のこと、抱きたい」
俺はほんとはとてもとても臆病だから。
言葉だけでは不安で、確かな証が欲しい。
それがたとえば心に深い傷を負わせたとしても。
「三上が欲しいんだ」
小さく、けれどはっきりと伝えられた言葉に、三上は小さく躰を震わせた。
それは中西が今まで一度として口にしたことのない想いだった。三上を大切に思っていたから、言うことのできなかった感情だった。
初めて触れる、本気の心。
刹那、三上は躊躇した。
行為への怯えと、中西を愛しく思う気持ちとが、躰の奥でせめぎあう。
何も言わず、ただ黙ったまま見つめてくる色素の薄い瞳に浮かんだ不安げな彩に、三上はとくんと心臓が啼くのを聴いた。
「……いい、よ」
雨音に掻き消されそうな程小さな声が、骨を伝って内部へ届く。祈るように瞼を伏せた三上の心は、触れた体温に解け、そのまま中西に流れ込んで、心音が重なった。
脆すぎる薄硝子に触れるように、中西の手がそっと三上の頬を撫でる。唇を、喉許を、まろやかな肩を滑り、中西はそのまま三上を掻き抱いた。
「ちょ……っ、くるし」
「好き。大好きだよ、三上」
溢れる想いのままに繰り返し、そのままベッドに倒れ込む。
抵抗を防ぐように両手で頬を包み込んで、中西は三上に深く口接けた。
しとしとと、雨は降り続いている。
暗い室内に雨粒に反射して滲んだ常夜灯の光が忍び込んできていた。
慈しむように三上の髪を撫で、中西は眼を細めて、微かに身じろぎした彼の艶やかな髪に優しく口接けた。
「ん……なか、にし?」
掠れた声で名を呼んで、三上は億劫そうに眼を開ける。
中西は微笑んだ。
「起きた?」
「――――うん」
「寒くない?」
そっと肩を抱き寄せて、中西は微笑む。
戯れに目尻に口接けて、ピクリと反応した三上を愛しく思った。
「……中西」
「うん?」
「何人?」
馴れてたと見上げてくる三上に、中西は苦笑する。
「男は三上で3人目だよ」
素直に答えて、「そう」と俯いた三上の髪をさらりと梳いた。耳許に口を近づけて、
「でも、本気で欲しいって、自分から望んだのは、三上が初めて」
そう囁く。
俯き、髪に隠れた口許が微かにほころぶのを、中西は見ていなかった。けれど触れている手に微かに力がこもって、中西は愛惜し気に滑らかな肩を撫でる。
鼻先で甘く香る洗いたての黒髪に、とくりと心臓が鳴った。
「三上は?」
初めてじゃないでしょう? と問いかけてくる声。
三上は一度眼を伏せ、柔らかい瞳をした中西を見上げた。
「……俺の初めては、香、だから」
ずきん、と頭の奥が痛んだ。
思い出したくない疵が浮かび上がってくる。信じたいと、そうしなければ壊れてしまうと、必死で忘れたフリをしていた。
初めては……。
鈍痛を伴って、忌まわしい記憶が脳裏を占める。
見知らぬ男たちが自分に覆い被さって、その後ろで香は無表情に煙草をふかしていた。
カタカタと、肩が細かく震える。
三上はぎゅ、と眼を瞑った。
「三上?」
中西の、不安そうな声。
三上は怯えたような瞳で中西を仰ぎ、護るように触れてきた手に安堵するかのように吐息した。
「だいじょうぶ?」
「ん」
「……辛いなら、無理しなくていいから」
優しすぎる中西の言葉が痛くて、三上は眼を伏せた。
中西の掌が、宥めるように肌を撫でる。そのまま静かに抱きしめられて、心が緩んだ。
「悪ぃ」
「いいよ。ゆっくりでいいんだ。三上のペースで」
だから怖がらないで。
護るから。
俺が三上を、三上のすべてを護るから。
愛しくて、泣かせたくなくて、中西は柔らかく囁く。
触れてくる手が、伝わる熱が、三上の躰の奥底で凝り固まったものを溶かすように包んだ気がした。
瞬間的に、この人なら、と思った。
辰巳にさえ話すことのできなかった、重苦しい事実。無意識かに圧し込めてきたその疵痕、まだリアルに三上を苛み、ぱくりと赤い傷口を晒けている。
受け入れて、もらえるだろうか?
自分ですら眼を背けてきたそれを、中西は。
(こわい)
けれど。
「中西、俺、さ。俺……」
言い淀む三上の背を、中西は宥めるように軽く叩く。
三上はひとつ息を吐き出して、揺れた視線を中西の瞳に結んだ。
「小6ん時、俺、男に犯されことあるんだ」
「ん……」
「そいつら、香の仲間だった。香は、ただそれ見てて、助けては、くんなくて」
否、寧ろその状況に三上を追いやったのは、香自身で。
あの時感じていた、痛みと恐怖。
それは肉体的にも精神的にも三上を苛み、蝕み続け、その重圧が彼を歪ませていた。
苦しそうな表情に、中西は抱いた腕に力をこめる。
三上は心を落ち着かせるように何度か大きく呼吸した。
「だいじょうぶ?」
気遣う声に、こくりと頷く。
「怖かったんだ。すげぇ怖くて、抵抗なんて、できなくてさ」
「うん」
「顔とかはなんも覚えてない。ただ指の感触とか、空気の冷たさとか、香の吸ってた煙草の煙の色とかは、今でもはっきり覚えてる」
そう、夢に見る程に。
中西の大きな手が、優しく髪を撫でる。三上は抱き締める腕に縋るように触れて眼を伏せた。
自ら封じ込めてきた、重苦しく冷たい記憶。
忘れたくて、なかったことにしたくて。
あの日の夜、香に一度だけ抱かれた夜を、その忌まわしい記憶を隠すように何度も思い出して。
「香は、俺のことキライだったんだ……っ」
「嫌いな人間を抱いたりなんかしないよ?」
「でも、だったらなんで」
なんで助けてくれなかった。
なんであの場所に自分を連れて行った。
なんで、仲間に笑いながら「好きにしろ」なんて。
眼を裏が焼けるように熱かった。
息苦しくて、三上は心臓を押さえる。
三上の心に絡みついて離れない、楔。締めつけられる苦しみに、瞳が潤んだ。
「三上?」
「なかにし……っ」
「大丈夫、だいじょうぶだよ。俺は、ここにいるよ」
「……うん」
声を震わせて頷く三上が酷く愛惜しく感じた。
触れ合った素肌は温かく、重なる熱は安堵感を与えてくれる。
「ねぇ三上?」
柔らかく呼びかけた中西に、三上は眼を瞬く。中西は微笑んだ。
「少し、俺の話をしてもいい?」
「中西、の……?」
「そう」
「でも……」
躊躇いを見せた三上の髪を、中西は長い指で梳いた。
滑らかな頬を撫で、中西の唇が優しく額に触れる。
「中西?」
「聴いて欲しいんだ、三上に」
「…………」
「三上は辛いことを話してくれた。それはどうして?」
苦い苦い、記憶。
言うのには途方もない苦痛を伴っただろう。
「……きいて、ほしかったんだ。中西なら、ちゃんと受け止めてくれるような気、して」
とつとつと、三上は話す。
中西は艶やかに微笑んだ。
「俺も同じだよ。三上だから、聴いて欲しいんだ」
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