第三章  



窓硝子を雨粒が伝う。
父も義母も仕事に出ていて、家の中には自分と義兄しかいなかった。もっとも義兄は一人で部屋に篭っていて、三上自身も本の世界に没頭していたから、実質的には独りと変わらないのかもしれない。

激しい雨音はそれでもどこか単調に音で時を刻む。

時折白い光が駆け抜けて、雷鳴がとどろいた。

世界は薄暗く、室内灯の明りがいっそ白々しい程だ。

重たい息を吐き、三上は本にしおりを挟んで眼を閉じた。

雨音と時を刻む秒針の音が、思考を埋め尽くしていく。

閑散とした家に、トルゥルゥルゥと電話の音がして、すぐに切れた。立ち代るように、小さくノックの音。

三上は僅かに眉を寄せ、ぽふりとクッションに頬を押し付けて無視を決め込む。それが意味のないことだと知っていても、そうせずに入られなかった。

反抗の意志を示すのは嫌いだからではない。寧ろ三上は。

「あき? 入るぞ」

扉の向こうから掛けられた声に、三上は応えない。

睨み据えるように見つめた扉が、軋んだ音を立てて開いた。

「いるなら返事ぐらいしろ」

父親に似た、ひいては自分と土台の同じ端正な顔。その眉間に、微かに皺が刻まれる。

「……何?」

床に視線を落として呟くように問うた三上に、義兄は軽く溜息をついた。後ろ手に扉を閉め、壁を背にして座り込んだ三上の下へ歩み寄る。

頬に触れた手に促されて顔を上げると、高さを合わせられた色素の薄い瞳が合った。

「出かけないか?」

「……どこに」

「仲間んとこ。いつも独りで夕飯食うの、イヤだろ?」

見返した瞳の、底は知れない。

ついていっては、いけないような気がした。何故かは定かではないけれど、何か越してはいけない線の上を導かれて、戻ってこられなくなるような気がして。

けれど浮かべられた笑みに誘われて、三上は香の手を取る。

香は三上にとって、抗いがたい存在だった。






ぼんやりと、意識が覚醒する。

焦点のブレた視界は見慣れた自室のものであったが、記憶が曖昧に途絶えていて、三上は戸惑った。

昨晩、中西の腕の中にいたところまでは覚えているのだが、それから先が消失していた。代わりに脳内を占めていたのは、夢という形で現れたかこの一節。

枕許の時計を見ると、もうすぐ起床の時間だった。

激しい頭痛に軽く頭を振り、三上はもそりと体を起こす。もう十分もしたら起き出すであろう渋沢にちらりと眼を向け、小さく息を吐いて三上はベッドから抜け出した。




各部屋に備え付けられたシャワールームで纏わりつく様々な痛みを熱い湯に圧し流して外に出ると、丁度渋沢が制服のネクタイを締めているところだった。

三上に気がついて振り返った渋沢は、朝から爽やかな笑みを浮かべる。

「おはよう三上、よく眠れたか?」

「……まぁな」

不機嫌に言い放つ。

渋沢は僅かに眉をひそめた。

「眠れなかったのか?」

「つーか夢見がな、最悪」

心底うんざりした口調で答えた三上に、まだ微かに疑問を残しつつも渋沢は苦笑した。

「そうか。それは災難だったな。俺も今日は藤代が騒ぐ夢を見てなぁ」

困ったように言う渋沢に三上はふ、と口許を緩める。渋沢は微笑し「先に行くぞ」と部屋を出て行った。

手早く身支度を整えた三上は、机の抽斗の最上段を開ける。

それは三上が毎日かかさず行う儀式であり、三上を縛する過去の痛みでもあった。

「――――」

息だけで名を呼び、三上は再び抽斗を許の位置に戻す。

身を翻して扉を開けると、真正面の壁に凭れて中西が待っていた。

「おはよ三上」

ゆっくりと壁から背を起こす中西に、三上はばつが悪そうに眼を逸らす。

「……ああ」

さっさと歩き出た三上の後ろからついてくる、静かな足音。

中西は優しい。

三上がいくら弱い一面を見せても、中西は硬く閉ざされた心に無理に踏み入るようなことはしなかった。ただ三上が欲する温もりを黙って与えるだけで、何も強要はしなかった。

あるいは無関心を装ったのは中西の怯えの現れだったのかもしれない。

護りたいと、嫌われたくないと、何よりも大切に三上を愛していたのだ。

その沈黙は三上の救いであり、中西の弱さでもあった。

耳に届く足音と、衣擦れの音。

階下の食堂の喧騒は二人の周りで断絶されたように、それは絶対の安心を与えていた。

「中西」

振り返ることはしないまま、三上は名を呼んだ。

「うん?」

「今度の、木曜なんだけどさ」

届けられる声は硬く、固く。

向けられた背中はあまりにも細く小さく頼りなく。

階段を下りかけた三上の足が唐突に動きを止め、連動するように中西も歩みを止めた。

「三上? 今度の木曜が、何?」

問う。

強く、まっすぐに先を促す。

三上は刹那ためらったようだった。けれど背に注がれる無音の視線に、小さく息をついて口を開いた。

「……部活サボる気、ある? つーか、午後から学校抜ける気、ある?」

最初は小さく、そして振り返り強く、三上は問うた。

中西は僅かに眼を見開く。

三上が部活をサボるだなどとは思わなかった。授業は平気でさ織る人間であったけれど、三上が今まで理由もなく部活を休むことは一度としてなかったのだから。否、風邪で休むことさえも厭うほどに、三上の中で部活を休むことはある種の禁忌のように。

その三上が、部活よりも優先させようとするものがある。それも、自分を誘って、だ。

強張った表情の根幹にあるものは何なのだろう。

行けば、解るのだろうか。三上に、近づけるのだろうか。

泣きそうな瞳の奥に灯る、強い光。

自分が断っても、三上は責めないだろう。けれど外出をやめることは絶対にないのだと判る瞳の彩に、三上を1人で行かせることへの抵抗があり、もしも自分が断ったら辰巳を伴うのかと、僅かな嫉妬が生まれる。

黙って答えを待つ三上に、不意に抱き締めたい衝動にかられた。

「三上」

名を呼んで、瞬いた三上の頭を引き寄せる。

「一緒にいくよ。だから、笑って?」

誰よりも君が愛しいから。

三上が怯えながらも望んだ手を、自分にできるだけの温もりで差し出す。

1人で行かなくても良いアンドからか、三上の躰から緊張が解けた。

腕の中に抱き留めた、小さな温度。

力の加減を間違えればいとも簡単にカシャンと音を立てて砕けてしまいそうな愛しさに、中西はこの手を放してはいけないと思った。

護りたかったし、何よりも三上を知りたかった。

自分たちの間にある、脆くも不透明な硝子板。無理に乗り越えようとすればバラバラと崩れ落ちて、三上を傷つけてしまいそうで怖かった。乳白色の硝子の向こうで泣く三上の姿が、白濁とした闇に隠されて、踏み込んでいくことに中西は臆病でいた。

それだけ愛していたのだ。

そしてもう1つ、歪んだ望みが中西の裡には蹲っている。

過去を紐解きたとえばそれで三上が泣いたとしても、楔を打ち込まれていた三上の瞳がそれで自分を映してくれるようになるのなら、と。

それはもしかしたら中西自身も気づかないほどに心の奥底深くに眠る、絶対の真理だった。



風がゆるゆると吹いている。

休憩の合間、揺れる砂埃の向こうにじゃれるっ三上と藤代の姿を見ながら水分を補給していた中西は、近づいてくる辰巳を捉えて眼を細めた。

「お疲れー」

「ああ」

短く応え、辰巳は中西の隣に並んで壁に背を預けた。

丁度影になったそこでは、緩い風も心地良い。

「中西」

「ん〜?」

「三上のこと、頼むな」

強い瞳に見つめられて、中西は微かに苦笑する。

「きいたんだ? 一緒に行くって」

「おまえは訊いたのか? どこに行くのか」

「ううん。どこだっていいんだ、三上を知ることができるなら」

眼を細めて、中西は笑う。

愛惜しそうに、哀しそうに微笑う。

「そうか」

頷いた辰巳に、中西は透明な眼を向けた。

一瞬ぎくりとする。

その眼の彩に、深さに、想いに。

「中に」

「いつもは、辰巳が一緒に?」

遮って聴く声に、感情は含まれていない。けれどそれが逆にギリギリの中西が抑え込んだ痛みを浮き彫りにしていた。

「ああ。俺にも、関係のあることだから」

身長に、辰巳は言葉を紡ぐ。

眼の前の大人びた少年が本当は傷つき易いのだと知っているから。

「……そう」

「今年は日曜に1人で行く。だから、三上を頼む」

本当は、一緒に行けるならと思う。

あまりにも脆い三上を知っているから、傍についていてやれたらと。

けれど、もうそろそろ三上も受け入れてもいい時期だ。否、前へ進むために過去を断ち切るべきなのだ。

そのためには自分ではいけない。

そのとき必要なのは自分ではない。傍にいるべきは己ではない。

微かな苦い思いを風に流し、辰巳は静かに眼を伏せた。











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