第二章  




躰をくるむ、生温かな闇。ねっとりと粘着性を持った空気。
無明無音の世界に、ぼんやりと白い光が現れた。ひかりを透かした先にセピア色の映像が浮かび上がって、それが自身の記憶であると数秒かかって認識する。

ざあざあと、雨が降っていた。

幼い三上の手には血のついたバタフライナイフが握られ、肌や服の上に斑に散った血が雨に溶けてぽたぽたと落ちていく。

躰の芯が、シンと冷えていた。熱を失った指先を、ぎゅ、と拳に握る。

酷い頭痛と吐き気がした。





暗い室内。同室者は寝ている三上を気遣って談話室だ。蒲団にくるまれた三上の傍には、中西が心配そうに座り込んでいた。

瞳の内に浮かべられた表情は、普段の中西にはおよそ似つかわしくないもので。

「ぅ……ん」

苦しげに呻いて表情を歪めた三上の髪を、そっと掬う。握っていた手が、弱く中西に縋ってきた。

「起きたの? 三上」

囁きにも似た問いは、闇に吸い込まれていく。

ふる、と瞼が震えた。

ぼんやりと開かれた闇色の瞳に、覗き込んだ中西の顔が映し出される。

「なか、にし……?」

掠れた声が紡いだ自身の名に、中西は微かに安堵し詰めていた息を吐き出した。重ねていた手をあやすように叩いて放す。

何処か焦点の合わない揺れる瞳が、数度瞬(しばたた)いた。

「……辰巳は?」

不安そうに幼馴染の名を呼ぶ三上の髪を、中西はそっと梳く。

三上は自分に対して酷く無防備だ。心を、開かれているのだと理解ってはいる。

けれどいつまでも自分は辰巳には勝てないのかと、こうして辰巳を探す頼りなげな姿を見る度に思うのだ。

「中西?」

黙したままの中西を、三上が呼ぶ。

中西は柔らかく笑んだ。

「何かあったかい飲み物、作ってきてくれるって」

「そっか」

ゆっくりと身を起こし、三上は頷く。

蒲団の中で温まった躰に部屋の空気は少し冷たく、三上は微かに肩を震わせた。

「寒いの?」

「ちょっと」

「今まで寝てたからだね」

そう言って、中西は辰巳が用意していたショールを三上の肩にかけてやった。前を掻き合わせ、ほっとしたように三上は笑う。

「さんきゅ」

「ドウイタシマシテ」

笑った中西はノックの音に扉を振り返った。

「戻ってきたみたいだね」

相変わらず律儀だと思いながら、中西は静かに、音を極力立てないように開かれた扉を見ていた。

「おかえり、辰巳」

「ああ。三上の様子はどうだ?」

「うん。今起きたとこ」

「そうか。三上、大丈夫か?」

部屋に上がってきた辰巳は躰を起こした三上の許にそっと腰を下ろした。静かに頷いた三上に笑んで、熱いコーヒーを渡す。

「中西、コーヒーで良かったか?」

中西が缶コーヒーを嫌いなことを知っていたし、辰巳や三上や渋沢の淹れたコーヒーならば一言の文句も言わないのは知っていたけれど。

「もちろん。辰巳が淹れたんでしょ?」

カップを受け取りながら確認するように問う中西に、辰巳は苦笑して頷いた。

「辰巳」

「どうした?」

微かに名を呼んだ三上に、辰巳は心配そうな眼を向ける。

「悪かったな」

泣いて。

中西を気にしてか呑み込まれた言葉をきちんと汲み取って、辰巳は微笑した。手を伸ばし、柔らかい黒髪をくしゃりと掻き混ぜる。

三上は上目遣いに辰巳を見た。

「――辰巳、中西と、2人にしてくんね?」

「……ああ」

頷いた辰巳の瞳に僅かに浮かんだものには気づかないフリで、三上は眼を伏せた。

辰巳は小さく息を吐き出し、自分の茶器だけを持って立ち上がり、ドアノブに手をかけたところで中西を振り返った。

「あとは頼むな」

ぱたん、と扉が閉じるのを見てから、中西は三上に視線を流す。眼を伏せ俯いたままの三上にそっと手を伸ばした。

白皙の表に落ちかかる、漆黒の髪。折れそうに細く艶かしくさえある首筋。ショールをきつく掻き閉じる指は長く、けれどその美しさに度々垣間見る影は酷く重い。

指が触れると同時、三上の肩がびくりと震えた。

「三上?」

「あ……悪い。中西、」

「うん?」

訊き返した中西を戸惑うような瞳で見上げて、三上は言い淀む。促すように優しく頬に触れてきた手に、静かに眼を伏せた。

「ぎゅってして」

ほとんど呟くように乞うてぎゅと拳を握った三上が酷く可愛くて、中西は微苦笑浮かべ微かに震える躰を抱き寄せる。

「どうしたの? なにが不安なの?」

こうして三上が甘えてくるのは酷く珍しいことで、だから不安になる。けれど心配する言葉に返されるのいつだって強がりだと判る『なんでもない』で、その度に増していく三上の陰に心が痛んだ。

黙ったまま、きゅうと服を掴む三上に眼を細め、中西は静かに髪を梳く。夜の空気は僅かも震動せず、触れ合ったところから聴こえる脈動の旋律おとだけが、鼓膜を揺らしていた。

抱き合ったまま、どれだけ経っただろうか、腕の中で三上が小さく身じろいだ。

「中西」

「なに?」

「ごめん」

小さな声で謝罪を口にした三上に、中西は軽く首を傾げてそっと髪を撫でる。

「なんで謝るの?」

静かな声に、三上は僅かに唇を噛んで首を振る。中西は嘆息し、両手で頬を包んで顔を上げさせた。

「三上」

「……なかにし」

深い瞳の彩にぎゅう、と心臓が痛んで、三上は苦しげに表情を歪めた。

不意に重なる影に、泣きそうになる。躰の奥が熱くて、きつく拳を握った。

「――――、」

思わず呼びそうになった名前をかろうじて呑み込む。

理解っていた。最初から知っていた。

眼の前の人とあの人が、よく似ているということ。自分が中西に惹かれたのは、あまりにも彼があの人に似ていたからで、3年たった今でもどこかで姿を重ねていること。

いつだって心の奥底にはあの人が棲んでいて、自分が愛しているのがこの男なのかあの人なのか判らなくなる。自身の存在さえも、危うくなる程に、眩暈がして。

逃げなのかもしれない。甘えなのかもしれない。

甘美な錯覚に身を浸して、相手を傷付けてしまう可能性すらも自分を護るために無視して。

それは幻でしかないと理解していながらもそうすることで何かを、自分を、必死で保ってきた。

我に返れば不安だったし罪悪感もあって、それでも求めずにはいられなかった。そしてそんな自分を、辰巳は責めなかった。

三上があの人を喪ったことで抱えたどうしようもない痛みと、その細い肩に負ったものを知っているから、心配そうに微笑むだけで、正面から彼を咎めることはしなかった。あるいは、三上が笑っていてくれるのなら、他のことはどうでも良かったのかもしれない。

喪った時、過ちを受け入れなければならなくなった時、三上が壊れてしまうだろうことに怯えて、疵が深くならない内に救ってやるべきなのに、少しでも長く三上の笑顔を見ていたかった。たとえそれが一時の幻であったとしても、三上が幸せであるのならそれでよかったのだ。

甘く痺れるような偽りの幸福。

それを生み出す中西に罪悪感がない訳ではなかったけれど、天秤の傾く先はいつだって三上だった。

辰巳が先程見せた一瞬の表情。それは三上への責句ではなく、三上を護る為なら仲間を裏切っても構わないとさえ考えてしまう自分への嫌悪だったのかもしれない。

中西は、気づいているのだろうか。

身代わりにされていることに気づけない程、中西は愚かではないはずだ。それでも何も言わないのはその聡い頭の隅で様々な仮説や計算が行われた末の結果なのか、それとも盲目的に三上を愛しているからなのだろうか。

誰にも、中西の思考は読めない。

そう、こうやって瞳を合わせていても、深い彩の奥にある本当の姿(中西)を知ることは困難だった。

再び中西の胸に顔を埋め、三上は眼を閉じる。

「中西」

「うん?」

「明日は、晴れるかな」

「10%だって」

流れ込む、心地良い低音。

「そっか」

眼を上げキスを求めて手を伸ばした三上に微かに眼を細めて微笑んで、中西はそっと唇を寄せた。

触れ合った冷たい熱に、どうかこの罪深くも狂う程に甘く優しい幸福な夢幻(ゆめ)が醒めないようにと願った。














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