第一章  




三上亮は雨が嫌いだ。
心の奥底に溜まった記憶が思考を塞ぐ。普段は深く沈めている罪の意識が、緩い雨ならまだしも、強い雨音に引っ張り出されて三上を責める。

精神的に不安定になった三上は本能的な自己防衛心からか、物言いが酷く攻撃的だ。日頃の口の悪さはそれを誤魔化すためのものなのだが、違いを敏感に感じ取って、ある程度の付き合いのあるものは極力係わり合いになろうとしない。

三上にとって、それはありがたいことだった。

人は苦手だ。

躰から発散される熱や体臭に吐き気がする。耳障りな声や向けられた眼に心臓が痛む

嫌いだった学校を雨を透かして思い出して、三上は小さく舌打ちした。

脳裏にちらついた映像は最悪なものだった。無意識に左手首に渡した時計を押さえる。

眼を伏せ、深く呼吸した。騒々しい空気がふ、と遠退く。

瞼の裏に浮かぶものはなく、ただ甘い闇がそこにはあった。

そうして意識を沈めてどれ程経っただろうか。

「……かみ」

視界を覆った闇の向こう側から、誰かが自分の名前を呼んだような気がした。けれどその声は酷く遠く、三上が黙殺すると、知っている気配が近づいてきた。

「三上」

今度はすぐ近くで明瞭に聴こえた耳慣れた声に、三上はゆっくりと眼を上げる。机の前に立っていたのは、声を聴いた瞬間に暗闇に浮かんだその人だった。

「珍しいな、お迎えなんて?」

真面目に見下ろす瞳に揶揄うように笑う。彼――――辰巳良平は微かに眼を和ませた。

「いや、大丈夫かと思ってな」

「何が?」

荷物を片付けて立ち上がり、三上のまっすぐな瞳が辰巳を捉える。

「――――今日は、雨だろう?」

合わせられた瞳が、刹那彩を失う。

窓を叩く雨音に視線をずらし眉を寄せて、三上は口を開いた。

「余計な心配してんじゃねぇよ」

教科書を詰め込んだ鞄を肩に担ぎ上げ、三上は教室の出口へ向かう。

「でも、さんきゅ」

扉付近で一度立ち止まった三上が発した声は酷く小さかったが、放課後の閑散とした教室を渡り辰巳の耳に確かに届いた。

不器用な素直さに辰巳は苦笑する。傍まで行くと耳が緋くて、辰巳は笑みを深めた。

「行こうか、三上」

見上げてきた瞳が柔らかく笑って、その言葉に頷いた。




屋内練習場には一軍の人間はまだ少なかった。三軍がかけるモップの音が篭るように響いている。

出入りの為に一つだけ開け放された外扉からぬかるんだグラウンドが見えた。

ネットが張ってあるとはいえ、三上は扉を閉めて欲しかった。それはボールが出てしまったら困るとか、そういったものではなく、完全に三上個人の精神的問題から来る願いではあったけれど。

「三上? 辛いなら見るな」

「…………ああ」

縫い止められていた視線が、屋内に向けられる。

辰巳の声に断ち切られた思考が喉に詰まって息苦しかった。僅かに瞳に滲む、それはずっと傍で三上を見てきた辰巳にしか判らないような苦痛の色に、大きな手があやすように柔らかな黒髪に触れる。優しい温もりに、自分を追い詰める過去がゆっくりと沈殿していくような気がした。

「辰巳」

「ん?」

「もう、平気。大丈夫だから」

「そうか」

手が、離れる。

ちく、と一瞬心臓が痛んだ。

三上が辰巳の名前を呼ぼうとした、その時だった。

「三上せんぱ〜〜〜〜い!!」

突如練習場に底抜けに明るい声が響き渡った。

五月蝿げに顔を顰めて、三上は声のした方に背を向ける。

「ちょっとなんでムシすんですか三上先輩!!」

ばたばたと駆け寄ってくる足音。

毎度のことなのか、部員は何も言わず道を空けてやる。三上にとっては迷惑極まりない。 「はぁ<……うるせぇぞ藤代! 何度も何度も気安く呼んでんじゃねぇよっ」

三上が振り向いたのと藤代が床を蹴ったのは同時だった。

不意打ちに体重をかけられて、三上はバランスを崩す。藤代がうえにいるために上手く受身を取ることもできず、三上は痛みを覚悟してぎゅ、と眼を瞑った。

「あ――――!」

誰かが叫ぶ声が響き渡る。

「三上!」

すぐ近くで辰巳の声が聞こえて、同時に倒れていく躰がふわりと抱き留められる。

「大丈夫か?」

「あ、ああ。さんきゅ、辰巳。藤し」

辰巳に背を預けたまま藤代怒鳴りつけようとした三上の言葉は、

「三上にさわんな藤代ぉ!」

そんな大声と共に対象物を引き剥がされて宙に霧散した。

「大丈夫か三上

床に藤代の躰を押さえ込んだまま、心底心配そうに見上げてきたのは根岸だ。無言で頷くと根岸はにこにこと笑って藤代の上から躰をどかす。

盛大にぶつけた額を押さえつつ、藤代は身を起こして恨めしげに根岸を見た。

「痛いじゃないっすか」

「自業自得だバカ」

講義を切り捨てたのは三上だ。

辰巳の腕から離れて、三上は冷たく藤代を見下ろし前髪を掻き上げた。

「……そんなに見つめちゃイヤv」

「バカかてめぇは」

おどけた藤代に不機嫌に眼を細め、すい、と根岸に視線を移した。

「根岸」

「うん?」

「笠井は? こいつの保護者だろ」

問われて根岸は練習場を見渡した。ちらほらと増えてきている部員の中に、それでも足下の少年の相棒はいない。

根岸は首を傾げた。

「さぁ? 掃除だと思うけど」

答えに小さく舌打ちして、三上は軽く辰巳を見上げた。眼が合って、辰巳は苦笑する。

軽く肩を叩いてやって、辰巳は座り込み続ける後輩に手を差し出した。

「冷えるぞ」

「どうもっす」

引っ張り上げられるようにして立ち上がって、藤代は無邪気に笑った。

反省の色はない。これもいつものことだ。

「三上先輩!」

「あ?」

「次は負けないっすよ! 覚悟しててくださいっ」

「アホかてめぇは」

毎日飽きもせず同じことを繰り返す藤代に、三上は嘲う。

今日は不覚を取ったが、それは煙る雨に甦るものがあるからだ。けれどこのいつもと何ら変わりのない馴れ合いに、僅かではあるが暗く沈んでいた心が軽くなる。

それは藤代の持つ独特の雰囲気故か、それともメンバーの温かい愛情故か。

人と関わるのは相変わらず苦手で、人を信じることが怖くて、三上が心を開いているのは一軍の中でもたった二人しかいないけれど。自分の総てを露呈できるのはその内の一人だけであるけれど、だからこの温かい空気を感じる度に嬉しさと共にどうしようもない不安が三上の中には渦巻くのだ。それでも、その空気は心地良いから、三上が唯一昔を忘れることのできる瞬間を彼らは生み出してくれるから、三上は内なる感情を決して表に表すことはしない。

ぶちまけてしまったら、きっとすべてが壊れてしまう。

柔らかい空気に無意識に微笑した三上は、酷く美しかった。けれどそれはほんの一瞬の、そして判りにくい笑顔で、辰巳以外に気づける者いなかった。それはみかみをずっと傍で見護ってきた者にだけ判る瞳の彩だったからかもしれないけれど。

悪夢となり今でも三上を苦しめ続ける、あの三年前の秋。降り続ける雨の中で何時間も座り込んでいた三上は酷く儚く見えた。

言葉を失い、虚ろであった瞳。

雨の日は言葉こそ失いはしないものの、今でも空虚な眼をすることを知っているから、三上がこうして微笑うのが愛しくて、辰巳は静かに眼を細めて微笑んだ。




8時を過ぎても、雨は降り止む気配すら見せない。

激しい雨音はしん、と暗い無人の室内を埋め尽くしている。重く、低く渦巻くそれは、どこか潮騒にも似ていた。

騒がしい食堂から戻ってきた三上には、その五月蝿くも静かな空気は酷く重かった。

闇に沈んだ空間は、あの頃を思い出させる。今でも心を蝕んでいる、あの記憶がぼんやりと三上の視界を霞ませて、心が痛んだ。

振り払うように、緩く頭を振る。

けれど重たい記憶が払拭されることはない。3年という月日は、三上を救うことはなかった。彩褪せない鮮明(リアル)なそれは、どこまで行っても消えることがないのかもしれない。

慣れてしまった息苦しさ。

またあの頃と同じように声が断ち切られてしまうかもしれない。そう思いながらも、最近は忘れることすら諦め始めてしまったそのどうしようもない苦痛の種となった『彼』に、狂うほど逢いたいと思った。

それは決して叶えられることのない望み。意味のない願い。

三上はぎゅ、と拳を握った。

ゆっくりと呼吸し、背後に近づいてきた気配に振り返る。

表情を繕うことはしなかった。それが許される相手だった。

「大丈夫か? 三上」

「あんまり」

強がりを放棄して、三上は弱く笑む。泣き出しそうな笑顔に、辰巳は眼を細めた。

自分にすら滅多に見せない手放しの弱さ。

心配そうな瞳に、三上は自嘲の笑みを浮かべて見せる。

「もうすぐ、命日だからな」

「……そうだったな」

「今年も、やっぱ雨なのかな」

途方に暮れたように呟いた三上に、辰巳はそっと手を伸ばした。折れそうな儚さが痛くて、支えてやりたいと思った。

「辰巳」

指が触れる寸前、乾いた声が辰巳の名前を呼んだ。瞳を上げ、三上は首を振る。

「三上……」

「だめだ。触れられたら、抑え切れない」

半ば縋るようなその声に、辰巳はぐっ、と三上を自分の方へ引き寄せた。予想していなかった三上はバランスを崩して辰巳の腕の中に抱き込まれる。あるいはそれはあまりにも予想通りな行動であったかもしれないけれど。

大きな掌が、三上の髪を撫でる。

「辰巳……?」

戸惑う三上を、辰巳は放そうとしない。形の良い耳許へ唇を寄せて、辰巳は囁いた。

「我慢をするな。泣きたい時は泣け」

「放せ」

弱い声での頼みは聞き入れられることがなく、滲み出した涙に三上はきゅ、と唇を噛んだ。

「はなせって……っ」

「三上、強がらなくていいから。俺の前でまで、自分を偽るな。自分を抑え込むな」

「たつみ」

「誰もいないから、泣いていい」

それが、最後だった。

熱いものが三上の内側に膨れ上がる。堰を切ったように溢れ出した涙が頬を伝い辰巳の服に染みていたった。声は漏れない。ただ必死になってしがみついてくる躰が、細かく震えていた。

中途半端に開いたままの扉から三上を部屋へと導いて、電気を点けないまま壁際に座り込む。腕に抱いた三上の震える背を、そっと撫でた。

泣き声が空気を揺らすことはなく、哀しい振動だけが辰巳に伝わる。

声を殺した分だけ震えと涙は量を増し、それでも三上が声を上げて泣くことはなかった。それが辰巳には酷く辛く、けれどどうすることもできずにただ抱いていてやることしかできない自分が、情けなかった。

果たして自分は三上を救えているのだろうか。

支えてやれているのだろうか。

三上が泣く度に、辰巳は己の無力さを知る。

それでも。

零れる涙を止めてやる術を持ってはいないけれど、彼が自分にはこんなにも手放しに感情を表してくるから、自分だけには表面を繕うことをしないから、辰巳はそれだけで良かった。それは突き詰めれば優越や自己満足や、そんなものからくる感情であったかもしれないけれど。

募る愛しさのままに辰巳は三上を抱き締める。縋りつく姿は震えるウサギにも似て、けれど三上が本当に乞う温もりはもう決して彼を包むことはないのだ。

そうして三上の髪を撫で続けて、幾分経っただろうか。

それは酷く長いようでもあったし、短いようでもあった。

泣きつかれて眠ってしまった三上を酷く愛惜しそうに見つめて、辰巳は深く息を吐き出した。














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