「 ただいま 」
 変わらない優しさを見せる琉夜の瞳から逃れて、杳は家に戻ってきた。 玄関口からそうかけた声は、しんとした廊下に虚しく響くだけだ。
 解っている。
 いつだって義母は自分に応えを返さない。
 冷えた薄暗い廊下を歩いていくと、台所から淡い光が漏れていた。
「 おかあさん? 」
 台所に立つ義母の背に声をかける。 長い黒髪が揺れて、義母の瞳が振り返った。
「 ああ、はるくん、おかえり 」
 そう言ったきり、義母は夕飯の支度に戻る。
 杳は哀しげに眼を伏せ、息を吸った。
「 なにか、手伝おうか? 」
 やっとの思いで進言してみたが、返ったのは冷たい沈黙だった。
 きゅっと唇を噛んで、杳は荷物を床に下ろす。
「 食器だすよ 」
「 まだ、いいわ 」
「 …………おかあさ、、こっち見てよ 」
 掠れた声が、そう頼んだ。 けれど彼女は振り返らない。
「 ねえ……っ 」
 細い指先が、義母の服に触れる、その瞬間、凄い勢いで杳の手は振り払われた。
 びくりと躰を震わせて、杳は手を引いて、義母を見上げた。
「 おかあさん? 」
 震えた声で問いかける。
「 あたしはおまえの母親じゃないっ 」
「 っ 」
「 何回言ったらわかるの、あたしは佳一の母でおまえとはなんのつながりもないのよ!? おまえは、あたしから父さんを奪ったあの女の腹から生まれた忌子よっ 」
 どくん……っ
 耳の奥で、何かが音をたてた。
( どうして……っ )
「 ぼくはあの人じゃないよっ? 」
 そんなこと、誰だって判っているはずなのに、どうしてこの人はこんなにも自分を嫌う。
 面影のせいなの?
 なにも、していないのに。
 こんなにも想っているのに……っ。
「 …………部屋に、いきなさい 」
 感情を殺した声に言われて、杳は床から荷物を拾い上げると階段を駆け上がった。 突き当たりの扉に飛び込んでベッドに伏せる。
 階下では我慢した涙が、じわりとシーツを濡らしていく。
「 っく、……っふ 」
 喉が嗄れる。
 痛い。
 壊れそうだ。
 喉からは嗚咽が、眼からは涙が、とめどなく零れて。 頬を伝いシーツへと染み込んでいく涙は、義母に対する想いや琉夜に抱えた苦みとか、苦しさや哀しさや憎しみとか、そんな醜いものがぎゅうぎゅうと押し込まれているかのようだった。
 どうしようもなく、心が悲鳴を上げていた。
「 はるか 」
 しばらくして柔らかい声が聴こえて、杳は涙を拭いもせずに戸口を振り返った。 いつからいたのか、兄の佳一はそこに立っていた。
「 にいちゃん…… 」
 ひりついた喉の奥から縋るような声が漏れる。
 佳一は哀れむように杳を見て、眼が合うと少し笑った。
 その笑顔が、何故か哀しい。
 痛いほどに切なく、泣きたくなるほどに優しく。
 心配そうな彩を含んだ微笑。 なんだか自分よりも傷ついてさえいるような。
 けれど、杳にそれを思う余裕は無かった。
 自分の事だけで精一杯で、佳一のその表情が自分を想ってのことだとは気付かなかった。
「 にいちゃあん 」
 近づいて来た佳一に、杳は縋るように手を伸ばした。
 とにかく何かにしがみつきたかった。 何かに支えられていなければ、崩壊してしまいそうな気がした。
 抱きついてきた杳を、佳一は一度強く抱き締めた。
「 だいじょうぶ、だいじょうぶだから 」
 安心させるように優しく囁いて、佳一はvの瞳を覗き込む。 濡れた黒い瞳は、激情を詰めて揺れていた。
「 泣くんじゃない、杳 」
 頬に濡れる涙を拭ってやりながら、佳一は言った。 簡単に涙が止まるとは想っていないけれど、取り敢えず落ち着かせなければならないと思ったのだ。
 杳はきつく唇を噛み締めた。
 そんな杳に、佳一は柔らかく微笑む。
「 どうした? なにかあったのか? 杳 」
 気遣う兄に、杳はゆるく首を振る。
「 なにも、ないよ 」
「 何言ってるの。 泣いてたくせに強がるな 」
「 ………… 」
「 杳。 俺はおまえの見方だから言ってみろ 」
 俯いたまま何も応えない杳の髪に、佳一は優しく触れた。 安心させるようにゆっくりと髪を梳く。
 杳は泣きそうになりながら顔を上げた。 何か言いかけ、けれど何も言わずに口を噤む。
「 ……また、かあさんになにか言われた? 」
 ぴくりと杳の肩が震える。
 ぶつかった瞳はやはり何か言いたげだ。 瞳を揺らす杳が言葉を紡ぎ出すのを根気よく待っていると、やっと唇から言葉が零れた。
「 おかさんは、どうしてあんなにぼくを嫌うの? 」
「 はるか 」
 佳一は杳の科白に驚いて眼を見張った。
「 僕は、僕の本当のおかあさんとは違うのに、どうしておかあさんはあんな眼で僕を見るの……っ 」
 愛して欲しいのに。
 どうしてあの人は佳一に向ける愛情の半分ですら、自分には注いでくれないのだろう。
「 僕、本当のおかあさんよりも今のおかあさんといる方がずっと長いんだよ? おかあさんのこと、本当のおかあさんだと思ってるのに、いつだっておかあさんはにいちゃんのことしか見てないっ僕のことなんておかあさんは愛してないんだ! 」
「 はるかっ 」
 叫んだ杳は強い力で佳一に抱き寄せられた。
「 にいちゃん……? 」
 揺れる声。
 佳一は杳の頭を強く引き寄せて耳元に唇を寄せた。
「 そんなんじゃない 」
 押し出される、掠れた声が、鼓膜を震わせる。 言われた意味が理解できなくて、杳は眼を瞬かせた。
「 そんなんじゃない、ないんだよ。 杳。 かあさんはおまえを愛してないわけじゃない 」
「 なんで、そんなこと言うの。 にいちゃんだって、何度も聞いたでしょう!? おかあさんが僕のこと忌子だって言うのっ 」
「 ちがうっ 」
 首を振る杳に、佳一は低く叫んだ。
「 何が、違うって言うの。 さっきもそう言われたのに、どうして違うなんて思えるのっ 」
 否定する。
 もし本当に佳一が言うとおりに、彼女が自分の事を少しでも想ってくれているのなら、どうして佳一に見せる笑みを自分にも見せてくれないのだ。
 無理矢理せき止めていた涙が溢れ出し、佳一の肩口を濡らしていく。
「 僕、もう嫌なんだ 」
 兄の背に強くしがみついて、杳は声を絞り出した。
「 学校じゃみんなに蔑まれて、家ではおかあさんに必要らないって言われて、じゃあ僕の居場所ってどこにあるの……? 」
「 はるか、おまえいじめにあってるのか!? 」
 杳が微かに頷くと、佳一は華奢な躰を引き剥がしてゆさゆさと肩を揺さぶった。
「 なんで、なんでもっと早く言わないっ 」
 そうすれば、こんなにも傷つく前に救えたかもしれないのに。
 真剣な佳一の瞳を、杳はきっと見返した。
「 言えるわけ、ないじゃない。 いじめられてるなんて、簡単に言えるわけないじゃないかっ 」
 僕は家族にも他人にも嫌われていますなんて、言えると思う?
 プライドを捨てることなんて、簡単にはできない。
 いじめられてるって言葉にして伝えることが、どれだけ屈辱的なことか、理解らないくせに。 自分が大切に想っている人が、それを伝えたことで自分を嫌うかもしれないって考えて、怖くて結局言えない気持ちなんて、理解らないくせに勝手なこと言わないでっ。
「 ……にたい 」
「 え? 」
「 死にたい……っもう、やだ 」
 誰にも想われていないなら。
 そうすれば、少しは誰かの中に、どんな形であれ、この存在は残るだろうから。
 琉夜の、心に。
「 死にたいなんて、言うな 」
「 だって、僕、必要ないでしょ? 」
「 言うなっ。 ……かあさんは、戸惑ってるだけなんだ。 頭では理解してても、感情がついていかない。 かあさんは、どうしたらいいのか、まだ解ってないだけなんだ 」
「 おかあさんがそう言ったの? 違うでしょ、知らないくせに。 そんな慰め方しないでよ 」
「 杳……。 お願いだから、死ぬなんて言わないでくれ。 俺はおまえのこと大切な家族だと思ってるから、誰が見捨てても、俺は絶対おもえのこと裏切らないから 」
 佳一はぎこちなく杳を腕の中に抱き寄せた。 頭を肩口に引き寄せて、泣きそうな声で囁く。
「 俺が、杳のこと護るから、死ぬなんて言わないでくれよ 」
「 にい、ちゃん……っ 」
 ぎゅっと佳一にしがみついて、杳は嗚咽を漏らした。
 誰かに、そう言って欲しかった。 たった一人でもいいから、必要だと、大切だと、そう言って欲しかった。
 それでも、苦しいのは変わらない。
 死ぬなと乞われて頷けるほど、傷ついてない訳じゃない。それだけで生きていられるほど、自分は強くない。
「 弱気になるな。 俺がそばにいるから 」
 あなたがそばにいてくれるなら、やり直せるかな?
 どんなに頑張ったって無駄だと思ってたけど、もう一回ぐらい、僕はあがいてみたっていいのかな。
 琉夜。
 僕は、もう少し生きててもいい?
 にいちゃん。
 僕は、ここにいてもいいの?
「 あきらめるのは、まだはやい? 」
 小さく訊ねると、佳一は静かに微笑み、頷いた。
「 大丈夫。 生きろ、杳 」
 優しく髪を梳きながらそう言われて、杳は微かに首を振った。
( あきらめない。 もう一回、がんばる )
 琉夜が、もう一度認めてくれるまで。







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