《一週間前》


 高く抜けた空を、鳥が渡っていく。

 吹き抜けていく風はまだ少し生温かく、湿り気を帯びていた。
 学校からの帰り道、ぼんやりと空を仰いだ杳は、排気ガスなどで濁り、吹き溜まった空気を透かして碧い空を探した。薄汚れた灰色のコンクリートの廃棄ビルを横手に見上げたその空は、なんだか作り物めいた青空で、杳は眉を寄せる。
 もしかして空がこんなにも濁って見えるのは、自分の心が濁っているせい? なんて考えたりして。
 噛み締めた唇からふっと息を吐き出して、杳は顔を上げた。
 途端、杳はびくりと方を震わせる。
「 よう 」
「 リュウ…… 」
 眼を上げた先で、にっと笑った少年の名が、杳の震えた唇から微かに音となって漏れた。
 そこにいたのは、唯一自分を助けてくれた少年だった。
 青薙琉夜。
 今年の春に転入してきた少年だ。
 さらさらの黒髪とか、澄んだ瞳の奥の輝きとか、時折見せる不器用な笑顔は、あの頃と何の違いも無いのに。
 どうしてなのだろう。
 あんなにも自分の苦しさを理解してくれいた彼が、どうして今では逆の位置にいるのだろう。 前の学校でいじめに遭って、逃げ出してここに来たはずなのに、誰よりも、この想いを理解っているはずなのに。
 それなのに。
 どうして…………?
 何度そう問いかけたかっただろう。
 けれど琉夜は近づくことさえも許してはくれなかった。
 琉夜が変わったのは、自分と距離を置くようになったのはいつからだった?
 いつから彼は、自分をいじめるようになった?
 何か、彼の気に障るような事でもしたのだろうか?
 解らない。 思い出せない。
 苦しくて、杳は無意識に服の胸元を握り締める。
「 なに、怯えてるの? 」
「 そんなんじゃっ 」
 からかうような口調に反射的に答えて、杳は唇を噛んだ。
 自分を見てるその瞳が痛くて、眼を逸らしたくて、けれど琉夜は静かに微笑うから、杳は動けなくなる。
 あの笑顔は、かつて自分を癒してくれたのもだから。
「 杳、ちょっと付き合えよ。 独りだけで勝手に帰ろうなんて、許されると思ってんの? 」
 痛い……。
「 みんなおまえと遊びたがってるし 」
 苦しい……。
「 なんとか言ったら? 」
 壊れる……。
 杳は、泣きそうに表情を歪める。
「 なんで……っ、そんなに 」
 つらそうな顔してるのっ。
 あの時みたいに。
 前の学校でのこと、話してくれたときみたいに。
 どうして泣きそうな眼をする。
「 杳? 」
 言葉を呑み込んで何も言わない杳に、琉夜は怪訝そうに問いかけた。
 杳は嫌がるように首を緩く振る。
「 待てよっ 」
 走り出した杳に一瞬遅れて、琉夜はその背を追った。暮れ始めた夕闇の中、雑踏に紛れようとする杳の背は、壊れそうに、消えてしまいそうに儚かった。

 細い路地の一歩手前で掴んだ手首はあまりにも華奢で、琉夜は苦しくなる。
 振り向いた杳の双眼は、涙に濡れて揺れいていた。
「 はるか 」
「 はなしてよ 」
 思わず囁くように名を呼ぶと、掠れ切った声で突き放された。
 躰は一切抵抗を示さないのに、向けられた瞳は頑なに琉夜の手を拒んでいた。
「 杳? 」
 痛い。
 あの頃と、同じ柔らかさで、呼ばないで。
「 どうして? 護ってくれるって、言ったじゃないっ なのにどうしてリュウは僕から離れたの!? なんでそのままほっといてくれないの……っ 」
 裏切られたとしても、そのまま関わらないでいてくれたなら、こんなにも痛い想いをせずにすんだのに。
 なのに、どうしていじめる側に立つ?
「 なんで。 なんで泣いてんだよ、杳」
「 もう、関係ないでしょ。リュウには。僕が泣いてようが死のうが、裏切ったあんたには関係ないっ 」
「 っ 」
 叫びと同時に向けられた瞳が、切れそうで、琉夜は思わず手を離した。
 一瞬、壊れそうな眼をした琉夜に息を呑んで、杳は唇を噛んだ。
 そのままたっ、と踵を返して琉夜の視界を外れる。
 けれど、もう琉夜は杳を追いかけようとはしなかった。
 小さな背を追った瞳が振り払われた手に視線を注ぎ、泣きそうに歪んで、琉夜はきつく唇を噛み締める。
「 はるか 」
 微かに名を呼んで、琉夜はゆっくりと路地に背を向けた。








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