この辺りであの高い空に、一番、近い場所。
37階建てのビルの屋上に、若宮杳はいた。
今日も快晴だ。
杳の頭上には、どこまでも深く澄んだ碧い空が広がっている。
まるで真新しい青と水色の絵の具を溶かし合わせたかのような、その空のところどころに浮かぶ千切れた白い雲は、水の中で弾ける泡を連想させた。
コンクリートの床に寝転んで、限りなく広い空を眺めていた杳は、反動をつけて身を起こした。
すぐ脇のフェンス越しに、街並みを見下ろす。
今まで綺麗な青空を映していた瞳に入り込んできたのは、乱雑に立ち並ぶ家々や高層ビルとか、その間を行き来する人の群れ。
雑多とした風景に、杳は眉を顰めた。
「 バカみたいだ 」
こんなゴミゴミした小さな街の中、何が楽しくて彼らは笑っていられるのだろうか。
37階のビルの上。
地上の蟻のような人間を眺めてそう吐き捨てた杳は、ポケットから父親の鞄からくすねてきた煙草を取り出して火をつけた。
「 ごほっ、けほけほ……っ、ふ 」
煙草を吸い込んで、杳は咳き込んだ。
まずい。
喉の奥がかさつように苦くて、不快で不快でたまらなくて、まだ長いそれを揉み消した。
「 こんなののどこがおいしんだろ 」
滲んだ涙を手の甲で拭って、杳は再び仰向けに寝転がった。
暖かい陽の光りが眩しくて、杳は片手を眼の上に翳した。
ふっと陰った陽光。掌の縁から零れた光りに眼を細めて、杳は寝返りを打つ。
振り向けた眼に映った制服の上着を痛そうな表情で引き寄せて、生徒手帳を引っ張り出した。
「 ………… 」
パラリ、と開いた拍子に挟まれていた何かが落ちた。
写真だ。
杳は無造作に生徒手帳を戻すと、ヒラリと舞った写真を掴んだ。
写真に写っているのは、二人の少年。
ぎこちなく微笑んだ杳と、その左隣に笑顔全開な少年が写っている。
( リュウ )
杳は心の中で苦しそうに彼の名を呼んだ。
いまでもこんなにも彼は綺麗だ。
( どうして )
護ってくれると、言ったのに。
それなのにどうして彼はあんなふうに変わってしまった?
何故、隣にいない? そっち側にいるの。
考えても答えは出ない。
「 リュウ……っ 」
微かに少年の名を呼んで、杳は唇を噛んだ。
ふっ、と力を抜いて眼を瞑る。
瞼の裏に浮かぶのは初めて逢った日のこと。
笑顔と一緒に眼前へ差し出された手だけが、その時の杳にはすべてだった。
手の中の写真をくしゃりと握りつぶして、杳は力を抜いた。
風に拐われてそれはコンクリートの上を転がっていく。
杳は溜息を吐いた。
「 にいちゃん、僕、もういやだよ 」
小さくそう呟いて杳は立ち上がった。
冷えた柵を掴んで、杳は唇を噛み締める。
もう、疲れてしまった。
「 ごめんなさい、にいちゃん 」
風に髪をなぶらせながら、彼は小さく呟いた。
あの時、絶対あきらめないって約束したけれど、これしか路はないから、勝手だけど許して欲しい。
( 僕にはもう、何もないから )
ただただ青い空の下、杳の心を満たす思いは、恐怖や憎悪や。
渦巻くような快楽にも似た感覚。
そこに空虚の波が押し寄せて、冷たい柵に触れた手に、杳は静かに力を込めた。
苦しそうに眼を伏せる。
僕には何もない。
路を選ぶべきポイントはとうに過ぎ、行き先には既に分岐点などは消えうせ、そのまま行けば崖。
後戻りすら、最早できないのだ。
それは一見自虐的な選択だけれど、戻って屈辱的なものを受けるよりも杳にはずっと好ましかった。
「 だから、さよなら。 にいちゃん 」
そして、リュウ。
伏せていた瞼をうっすらと引き上げ、杳は感情を一切含まない瞳で宙を睨んだ。
ぐっ、と腕に力を入れて、杳は息を吸った。
躰を引き上げる。
さぁ、逝こう 。
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