揺れる視界  




開け放した窓から、初夏の風が入ってきていた。閉じられたカーテンが温い風に揺れている。
窓際に寄せた椅子に腰掛け、枠に頭をもたせかけて眼を伏せた三上の髪が、ふわふわと風に流れていた。
読みかけの本のページが、パラパラと繰られていく。
「あーもう、かわいい顔しちゃって」
眠る三上の無防備な表情に、借りていた本を返しにきた中西は苦笑した。手を伸ばし、さらりと髪に触れる。
かけられたままの眼鏡が光を弾き、中西は眩しそうに、愛しそうに、眼を細めた。
「みかみ」
柔らかく温かい声で名を呼ぶ。
三上は微かに身をよじらせた。
微苦笑し、中西はそっと三上の手から読みかけの小説を抜き取った。一瞬触れた手は冷たく、中西は僅かに眉をひそめる。
ぎしり、と腰掛けたベッドが軋んだ音を立てた。
手にしたハードカバーを、ぱらりと開く。
整然と印字された文字を指で辿った。ちょうど2度目の殺人が起こったところだった。
眉を寄せて中西は本を閉じた。
中西もミステリは嫌いではない。今回三上から借りていた本も、結構重たいものだった。
三上にかつてミステリを読むのは何故かと問いかけたことがある。あの時三上は苦く笑って『子供のころは将来のためだった』と、小さく呟いた。
それ以上は何も言わなかったし、今は自分の意思なのだと笑ったけれど、あの一瞬の悼むような表情が、中西には忘れられない。
「……ん、なか、にし……?」記憶に沈んでいた中西は自分の名を呼ぶ掠れた声に、はっと顔を上げた。ぽやんとした眼に映し出された自分の頬が、青褪めていた。
眠たげに眼を瞬く三上に、中西は甘い笑みを浮かべる。
「おはよ」
「ん」
とろりと掠れた息だけで答えた三上にあの頃の陰は見えず、安堵と共に愛しさが込み上げて、中西はそっと唇に指で触れ、己のそれを重ねた。
寝起きの三上は無防備で、愛しさが溢れる。
「ん……ちょ、中西……っ」ようやっと抵抗を示した三上に、中西は面白そうにくすりと笑う。
「眼、覚めた?」
「さめたっ」
噛み付くように言葉を発する三上が可愛くて、中西は更に笑みを深めた。
「三上スキありすぎ」
襲われちゃうよ? と首を傾げる。
反目するように息を吸い込んだ三上の唇に、ちゅっと軽く口接けた。不意をつかれて瞠目した三上は、拗ねたような表情で中西から離れる。
「三上?」
「…………」「みーかみ」
「うるさい」
「ごめんって。俺が悪かったよ。ね? 機嫌直して」
宥めすかすように中西は囁く。
三上は不機嫌そうに眉を寄せたままで、中西は困ったように眉尻を下げた。
からかいすぎたか、と少し反省する。
だって、あまりに三上が可愛かったのだ。
寝起きのぼやんとした表情、普段は掛けない眼鏡は知的さと同時に眠気を含んだ瞳から幼い艶かしさを引き出した。
表情が、仕種が、愛しくて仕方なかった。
「中西」
「うん?」
「のどかわいた」中西は笑った。
「OK。なんか買ってくる」



三上の白い喉が、コクコクと動く。
仲直りに中西が買ってきた清涼飲料水。自分の手元にも同じ缶があって、けれどそれを中西は弄ぶだけで飲もうとはしなかった。
注がれる視線に気づいて、掛けたままの眼鏡のレンズを通して、漆黒の瞳が中西を捉える。
「なんだよ」
「べつにー」
「んなら見んな」
不機嫌に眉を寄せた三上の声はそれでも毎回の戯れと、本気の怒りは含んでいない。
「三上って」
不意に口を開く。
缶に口をつけたまま眼だけで問い返してきた三上に、中西は柔らかく笑った。
「三上は、美人だね」
「ああ!?」
「怒んないでよ、褒めてるんだから」
「美人って言われても嬉しかねぇんだよっ」
反駁する三上に本当のことなのにと思いつつ、中西はおとなしく口を閉ざす。せっかく仲直りしたのだ。余計なことを言って機嫌を損ねてはいけない。
じ、と見つめる。
三上は僅かにたじろいだ。中西は楽しそうにくすくす笑って、三上に向けて手を伸ばす。
「な、なんだよ?」
「メガネ」
単語で答えて、中西の綺麗な指が三上の眼鏡に触れた。
細い銀フレーム。
指先に伝わる冷たさに、レンズの向こうから何をするのかと不安な彩を滲ませた瞳に、とくり、と心臓が鳴く。
かしゃりと小さな音を立てて眼鏡を外し、そのまま軽く口接けた。
にこりと微笑んで眼鏡を弄ぶ。
「うん、三上の顔だ」
「は?」
「眼鏡もねー好きなんだけど。むしろ新感覚でどきどきなんだけど」
そこで言葉を区切って、中西は三上の瞳をにぃっと笑いながら覗き込んだ。
「キスするとき、邪魔でしょ?」
「ば、ばかだろおまえ……」動揺し、脱力した三上に、中西は笑う。
「かけていい?」
眼鏡。
小首を傾げた仕種が訳もなく愛しさと不安を運ぶ。
「三上?」
「……酔うぞ。乱視用のレンズだから」「だいじょーぶ」
肩を竦めたのを了承の合図として、中西は眼鏡をかけた。
一瞬、くらりと来る。レンズ越しの世界は奇妙に歪んで、けれどどこか綺麗だと思った。
これが歪み故の美しさの具象化なのかもしれないなんて、くだらないことを考える。
「三上ー」
「あん?」
「度、きつい」
「だから言ったろ、酔うって」
返せと手を出す三上に素直に従って、中西は歪みを振り払うように軽く頭を振った。余計に気持ち悪くなったのは黙っておく。
ぶつぶつ言いながら眼鏡をしまう三上の姿が、中西は愛しい。
眼鏡の向こうの新しい世界で、三上は眩む程に美しく、中西は静かに微笑した。


END




あとがき。

ようやくアップでできました、眼鏡ネタ。
うちは三上は眼悪くて中西は眼よいので、いつかやりたかった話です。
眼鏡三上にどきどき。眼鏡中西にトキメキ☆
想像の中で薫流とってもハイテンションです!!
絵のうまい友人にいつか描いてもらおう、うん。