松葉寮の西壁面に沿って、古ぼけた階段が渦を巻いている。
長い間風に曝され続け赤錆の浮いた手すりと、ギシギシと軋む鉄板。
地面から生えるそれは各階の非常口を経由し、屋上の給水タンク脇まで続いている。
夜に沈んだ螺旋の中央にはとぷりと闇が脈打ち、それはまるで奈落のそこへと続くように。
夜空には薄い雲が広範囲に亘って横たわり、籠もった銀光が割れ目から微かに漏れ出していた。
空を仰ぐ三上の指に挟まれた煙草から立ち上る紫煙が、雲のヴェールに同化していく。
冷たい風に身を震わせた三上は、階段の軋むギシギシとした音にうるさげに眼を細めた。
「あれ? 三上いたんだ?」
階段の上に現れた黒い影が音を発して、三上は小さく溜息をつく。
「それ使うなっつってんだろ、中西」
「危なくないよ?」
にっこりと微笑む中西が月明かりに身を晒して、三上は眼を逸らした。月の細かな光に愛撫された中西は、直視するにはあまりにも妖艶であったからだ。
ギシリと、階段が軋む。
風が髪を撫で、不意に眼の前が曇った。
反射的に上げた顔に、冷たい掌が触れる。
「三上」
どくん、と心が啼いた。
「いつからここにいたの?」
「……30分くらい前から」
中西は笑った。
そのまましゃがみこんで、ひたりと瞳を合わせる。
「だめだよ? こんな薄着で外に出ちゃ。三上風邪ひきやすいんだから気をつけないと」
柔らかく笑う中西の瞳は感情がなく、ぞくりと心が震える。眼を伏せても中西の視線から逃れることはできず、三上は小さく息を吐いて首を振った。
「いい」
「よくないでしょ」
「……冷えたら、中西があっためればいいじゃん」
震える唇から漏れる、白い吐息。
中西はおかしそうに笑んでさらりと三上の髪に触れた。
「誘ってるの? 三上」
囁き、反論する間を与えずに唇を塞ぐ。
触れ合ったそれは酷く冷たく、強引に割り入った口腔だけが熱かった。
嫌がる三上を押さえつけて呼吸を奪う。
苦しげに救いを求めて縋る三上が愛しく、同時に殺してしまいたい衝動に駆られた。
「っん……ふ」
ぐったりと瞳を潤ませた三上を抱き寄せる。大人しく体重を預けてきた愛しい人の髪を、中西はあやすように何度も梳いた。
「みかみ」
奇妙に甘ったるい声で名を呼ぶ。
三上は顔を上げた。
涙で潤んだ視界の中で中西が柔らかく笑んで、三上は眼を瞬く。
「なんだよ」
掠れた声で返せば、慈しむように中西の指が三上の前髪を払い、冷たい唇が額に触れた。
「中西……?」
中西の表情に、訝しげに呼びかける。
不意に腕が離れて、触れ合っていた熱が失われた。風が追い打ちをかけるように2人を割かつ。
立ち上がった中西の髪が風に流れて、雲を透かした鈍い月光を吸い込んで綺麗だった。
「三上、おいで」
伸ばされた手と誘う声は恐怖を伴いつつ抗うことを許さず、三上はその手に掴まって立ち上がる。
中西はにっこりと笑んでそっと手を引いた。
向かう先に怯えたように、三上は瞳を揺らす。
「中西……」
「大丈夫。怖くないよ」
「……でも」
「いいからおいで」
繰り返されて、三上は小さく嘆息した。
中西の瞳はずるい、と思う。
中西のこの透明すぎる瞳に、三上はいつも畏怖にも似た言い様のない感情を覚えるのだ。反論の石を奪い去るその瞳を、おそらく中西は判っていて向けてくるのだろう。
三上は唇を噛み、それでも抗えずに結局手を引かれるままに闇へと歩を進める。
ギシリ、と錆びついた階段の音。
強い反発心が沸き起こったが、三上は頭を振ってそれを振り払った。
とぷん、と息づく闇に、刹那怖気が走る。
「怖くないよ」
囁く中西の声が遠い。
繋いだ手がなければ、このまま呑まれてしまいそうだった。
高所恐怖症な訳ではない。
闇が嫌いな訳でもない。
螺旋の中央から吹き上げてくる風に、夜が鈍い呼吸音を発しながら眠っている。否、そう見せかけて、三上が堕ちるのを息を潜めて待っているのかもしれない。
三上は無意識に繋いだ手に力を込めた。
中西は微かに笑ったようで、空気が柔らかく揺れる。
「三上、そんなに力入れられると痛いんだけど?」
からかう声が耳を打って、三上は我に返った。
「あ……悪ぃ」
反射的に謝って手を放す。
風が強く吹いて、三上は手すりに手をついた。
「落ちないでよ?」
「落ちねぇよっ」
反発する三上にくすくすと笑って、中西は空を見上げる。
雲に包まれた光が、眼に痛かった。
髪が風に流れて、一瞬視界を塞ぐ。
どくん、と心臓が脈打った。
闇の中央を覗き込む三上に、不意に突き落としてしまいたい衝動に駆られて手を伸ばす。軽く触れた肩は細く、砕けて闇に紛れ込んでしまいそうだった。
「中西?」
振り向いた三上を無表情に見下ろして、中西は肩を押す。
不意打ちに、三上の足下がぐらりと揺れた。
驚いたように眼を見開いた三上の細腕が、喘ぐように中を泳ぐ。手すりがあると認識しつつも、落ちる、と思った。
「三上っ」
中西は鋭く叫だ。
手首を捉えて引き寄せる。
心が激しく荒れていた。
触れ合った熱だけでは安心できずに、そのまま三上の唇を塞いで呼吸を混じり合わせる。
ぎゅう、と怯えたようにしがみついてくる三上を、呪うように愛しく思った。
「三上、」
「いきなり、何すんだよ、危ねぇだろ……っ」
泣きそうな目で睨まれて、中西はきつく三上を抱き締める。縋るように三上の腕に力がこもった。
このまま三上の熱を抱えたままとろりと甘い闇に身を投げたなら、御伽話のような永遠を手に入れることができるのかもしれない。
とくとくと重なる鼓動に、瞳が潤む。
雲の切れ間から降下する月の光が風に揺れて、光粒と翳に彩られて二人はいっそ狂うほどに美しく背徳的だった。
END
あとがき。
長い間あっためていたネタです。
螺旋階段。薫流好きなんですけど怖くてダメなんですよね…。まだ軽い方なんですけど高いところってダメ。なのに昇りたがる困った人ですが(笑)
微妙にらぶらぶで微妙に殺意的なないようですが、こういう中途半端な中三が、薫流は割と好きです。
だから気に入っていただけると幸いです。
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