CROSS  


   


真夜中の、深い闇。金属音にも似た耳鳴りを伴った、静寂の支配空間。

カーテンの隙間から入り込んだ月の光が床の上を扉まで細く横切っている。

(眠れねぇ……)

枕に顔を埋めていた三上は、寝返りをうって天井を見上げた。息を吐き、もう一度眼を閉じる。

時を刻む秒針の音と、同室者の規則正しい呼吸音が、やけに耳についた。

一向にやってこない眠気に眠るのを諦めて、三上はベッドの上に躰を起こす。枕許に珍しく無造作に投げ出されたままになっていた煙草の箱に手を触れて、三上は穏やかに眠る渋沢にちらりと眼を向けた。

(うえ屋上、行くか)

気づかれて怒られてはたまらない、と三上は蒲団から抜け出す。上着を引っつかんでパタリとドアを閉じた。



屋上には強い風が吹いていた。

扉を開いた瞬間、吹き抜けた風に三上の髪が乱れる。風を孕んで服がバタバタと鳴った。

思わず細めた眼が、夜空に細くたなびく紫煙を捉える。

「あれ、三上?」

扉の開閉音に先客――中西は振り返った。

「どうしたの、眠れないの?」

緩く笑み、中西が問う。

「中西も?」

「まあね。よろしければお隣ドウゾ」

自分の隣を示す中西に少し笑って、三上はそこにすとんと腰を下ろした。そのままフェンスに凭れかかって、煙草を咥える。す、と差しだれたライターの炎に、三上は礼を言って煙草を寄せた。

吐き出した紫煙がゆらゆらと上昇し、強い風に散らされて消え失せる。

「何か悩み事?」

ぼんやりと煙の行く末を追っていた三上は、横から掛けられた声に眼をしばたた瞬いた。

「中西こそ、何かあった?」

「別に何もないよ。どうして?」

微笑んで否定されて、三上は眉を寄せる。

今まで暗黙のルールのようにお互いに干渉を避けていたから、中西が何故そう問うたのか理解らなかった。あるいは中西は何も考えていなかったのかもしれない。不意に、気まぐれで言葉を投げたのかもしれない。

ただそれだけのこと。

中西は相変わらず緩く笑んだままくゆる紫煙を見ていて、そこに答を求むる心がないことを知る。

「中西」

「うん?」

流される視線。煙草を挟む指は、やけに長く。

元から年相応に見えない大人っぽさを漂わせる少年は、夜の薄明かりの中にいっそ異様な程に美しく甘い色香を纏っていた。

「三上? なに?」

黙ってしまった三上に、中西は訝しげに首を傾げる。

「ん、なんでも、ない」

「そう?」

首を振った三上の言を軽く流して、中西は短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んだ。

細く吐き出された煙が、刹那視界を濁らせる。

見上げた空は冬の空気に硬く透き通り、あまりにも頼りない細月と星が、僅かばかりの光を放っていた。

吹き抜ける寒風に、髪が乱れる。

「さすがに寒いね」

うるさ気に髪を掻き上げてそう言った中西の声はそれでも温度を感じさせず、三上はそういえば夏も一人涼しげだったな、と思った。

中西は人間離れしている。誰もが思っていることだ。小学校時代から一緒だった根岸など、『あいつは人間じゃない』と言ってはたかれていたことがある。

中西と世界の間の位相はぐにゃりと歪んで流出し、それが誰もが中西に感じる壁だった。

漠然と、それでいながら確信的な。

三上はおそらくその不協和音を、一番敏感に感じ取っていて、それは彼が中西を好きだったから気がついたものなのかもしれなかった。

冷たい風に、三上は俯いたまま上着の前を掻き合わせる。

「中西」

名を、呼ぶ。

パタリと、指に挟んだ煙草の先から灰が落ちた。

「なに?」

返る、声。

零れ落ちた灰が、風に消されていく。

「俺のこと、好き?」

それは囁きかけるように、決して中西の眼を見ないまま。

けれど何でもない風を装っても、声は微かに震え、上着を握り締めた指は力を入れ過ぎて白くなっていて、それがどうしようもない恐怖や不安を物語っていた。

「好きだよ?」

さらりと応えると、三上の肩がぴくん、と震えた。

「どうして、そんなこと訊くの?」

覗き込む、深い彩をした瞳。

読めない感情に、素直に中西の言葉を信じられない理由の一端があった。それは中西はもちろん、三上自身気がついていない要因ではあったけれど。

「三上?」

再び黙り込んでしまった三上に、中西は首を傾げる。

「どうしたの?」

三上は答えない。

泣き出しそうな心に硬い表情で三上は唇を噛み、ぎゅうと眼を瞑った。

「……して」

かろうじて聞き取れる声が吐き出される。それは共に唇から零された吐息に呑み込まれ、中西の耳に意味のある言葉を運ばなかった。

「え?」

問い返した中西に、三上は緩く顔を上げる。

「どうして、そんなに簡単に好きとか言うんだよ、おまえ」

風に乗せて届けられた声は感情を抑えつけた静かなものだった。

中西は瞬間思案するように眼を細め。

ゆっくりと煙草を咥えた。夜の闇に紫煙を流し、中西は空を見上げる。

薄い星明かり。か細く揺らぐ、月明かり。

振り注ぐ神聖にして残酷な闇に、中西は静かに吐息し、三上に瞳を合わせた。

「好きだから」

噛んで含めるように、はっきりとそう言う。

意味を測りかねて、三上は眼をしばたた瞬いた。

「ねぇ、好きだって思ってそう伝えるのは、いけないこと?」

「…………」

「好きだから好きって言ったの。三上が大切だから、離れていかれたら泣いちゃうかもしれないぐらいに」

切なげに眼を伏せ、中西はもう一度天に視線を転じる。

「だから何度も好きだって、言ったんだよ。それで繋ぎとめておけるのならって、そう思った」

「なかにし」

名を呼んだ三上に、中西は微笑む。

壊れそうに、強く、気高く、そして儚く。

歪んだ瞳に写った己の姿が不安定に揺れて、中西はつい、とその白皙の頬に手を伸ばす。

「俺だって不安なんだよ?」

囁いて、風に零れたしなやかな黒髪を梳いた。

「中西、」

「ううん、いいよ。言わないで。三上の気持ちもね、本当はわかってるから」

にこりと刻まれた笑みには哀悼が。

柔らかい瞳には、深い闇が。とろりと甘い蜜を含んだ、闇が。

「あんまりにも軽く俺が答えるから、不安だったんでしょう? 本当は、想われてないんじゃないかって」

低く甘い声が暴いていく、三上の心。

そこまで理解っていてどうしてと、三上は中西に問う。

中西は笑った。

「だって三上、それは三上の感覚じゃない。俺は好きって言わないと不安だった。三上は、好きって言われ続けて不安だった。お互いに擦れ違っていた、それだけだよ」

「でも、中西には俺の気持ち、理解ってたんだろ?」

「理屈と現実は違うんだよ、三上。理解ってても、言わずにはいられなかった。三上には、そういうことってない?」

優しく微笑んで、中西は触れた指で頬の輪郭をなぞる。その仕種はひどく愛惜しそうに大切そうに。

俯く三上に、中西は覗き込むようにして瞳を合わせる。

「三上」

耳に流れ込む声は低く、誘うように甘く。

「キス、してもいい?」

「なっ」

反応した三上が逃れる前に、中西はその唇を塞いだ。

拘束は緩かった。触れるだけの、甘いキスだった。

それでも、逃れられなかった。

「ねぇ、信じて」

唇を離し、こつんと額をぶつけて、中西は三上の表情を確かめる。感情の昂ぶりに潤んでしまった瞳で、三上は睨むように、縋るように、中西を見つめた。

「なにを」

「俺の気持ち」

さらりと、長い指が髪を撫でる。

足下に転がった煙草から、微かに煙がなびく。

中西は微笑した。

ゆっくりと、だが強く三上を抱き寄せて、形の良い耳許に唇を寄せる。

「好きだよ」

何度となく繰り返した言葉を、もう一度囁く。

疑わないでと、本気なんだと、どこまでも深みのある絶対的な声で。

「ん……」

何度となく繰り返された言葉に、三上は頷く。

信じると、不安でも受け入れると、どこまでも中西が愛する仕種で。

躰を離し、屋上をさすらう風に冷たいね、と微笑んで中西は三上の唇に指を触れた。

「三上。三上は、俺を好き?」

微かに声が震えたのは、寒さのせいか。

三上はかじかむ手で中西の頬に手を伸ばす。

慈しむように指先で中西の存在を確かめて、三上は泣きだしそうに笑った。

「うん」

暖かい息が、唇に触れた中西の指に当たる。

中西はもう一度、今度は深く口接けた。応えてくる三上が愛しかった。

半端じゃない運動量をこなす名門サッカー部の司令塔。そうでありながら己よりもずっと華奢な躰を、きつくきつく抱き締める。

言葉で三上が不安になるのなら。

言葉で気持ちが伝わらないのなら。

擦れ違った心を、触れ合った体温に溶かし込んで共有できたらいいと。

それは神に願うように。




END





あとがき。
久ぶりの中三。実はイベント合わせで書いてたものです。行けなかったのでこっちに流用(笑)
切ないをモットーに。
いや、いつもなんだか切なくなるのが中三なんですが、今回は意識的に切なく切なく、と。
三上に「俺のこと好き?」って訊かせてみたかったんですよ。中西はしょっちゅう訊いてたりしそうですが、三上って滅多なことじゃそんなこと言わないと思うから。いつも言ってるだろう中西さんも、今回は切なさを滲み出せるように動作に心がけたようなないような(笑)
とりあえず泣きたいほどに、不安になってしまうほどに大切なんだという想いが伝わればよいなぁ、と思います。