W  E  E  P  



   僕はいったい誰なのだろう。
   記憶を失って、智律さんに拾われて、だけど僕はどこもいにもいない。
   どんなに名前を呼ばれても。
   どれだけ愛されてると感じても。
   それでも僕はいつも独り。
   理由はわかってる。智律さんに嘘をついてるからだってわかってる。
   でも、本当の僕を知って、智律さんがどう思うか考えると怖くなるんだ。
   僕の本当の姿を見たら、きっと嫌悪する。
   智律さんに、嫌われたくない。
   でも、もしも僕の本当の姿を見てしまったら。
   ねぇ、智律さん。
   それでも、僕を愛してくれますか?








誰もいない、真夜中の教会。
月光を透かす淡いステンドグラスの影の中、天羽つかさは一番前の椅子に独り座っていた。
冬の冷たい空気が吹き溜まっている。
パジャマの上に薄いショールをかけただけのつかさは、凍るような寒さに身を晒し動こうとしない。 きっちりと閉まっていない教会の扉の細い隙間から吹き込んでくる風に髪を乱して、静かに十字架を仰いでいた。
「 とものりさん…… 」
微かな呟きが響く。
つかさはそっと瞼を伏せた。
脳裏に甦るのは中浦智律に初めて逢った、あの雨の夜のこと。
今でも鮮明(リアル)に思い出せる。
コンクリートを打つ強い雨音だとか、腕や躰に纏わりつく水を吸って重い髪の感触。 生温かい血と冷たい雨の混じりあった、肌の上を伝う不快な温度とか、傷つき痛すぎて感化のない熱。
そして、自分を覗き込む、黒い瞳。 耳を打った、低めの声。
ぼんやりと滲んだ世界の中で、自分を支えてくれた腕だけが確か。
唯一、失いたくないもの。
何もかもが偽物(イミテーション)の自分の中で、大切な大切な、たった1つの真実。 すべてが不安定なこの存在の中で、たった1つだけの信実。
譲れない想い。
けれど  自分は  嘘を  ついているから。
「 神様、僕はどうしたらいいんですか? 」
嫌われたくなくて、ずっとあの人をだましているけど、いつまでも隠し通せる訳がないってわかっているけど。
「 僕はっ、僕はいつまで、智律さんに嘘をつき続ければいいの……? 」
掠れた責苦(こえ)だけが、教会の床を這っていく。
「 でも……。 でも本当の僕を知って 」
( その時受け入れてもらえる保証なんて、どこにもない……っ )
「 受け入れてもらえるはず、ないもの。 こんな姿、醜いって……。 苦しいよ     っ、とものりさん 」
つかさは両手で顔を覆った。
喉の奥が渇いて痛む。 心臓が痛くて、思わずパジャマの胸元を握り締めた。 脳をかき回されるみたいな感覚。
次から次へと瞼の裏を点灯する、中浦と過ごした日々に つかさの瞳から涙が伝った。
堰を失う、狂うほどに強い想い。
「 とも……り、さん。 とものりさんっ 」
ひりつく喉が、悲鳴のように大切な人の名を繰り返す。 けれど返るのは真夜中の静寂と、教会の壁に反響する自分の声。
「 ……けて、たすけてよぉ、とものりさん 」
どうか、僕が僕でいられるように。
手足を戒めてる枷を外せるのは、あなたの言葉や笑顔。 翼に絡まる錆びた鎖を断ち切れるのは、智律さんがくれる優しさだけ。
ぱたぱたと、床を涙が濡らしていく。


ふいに足音が高く響いた。
びくりと肩を震わせた つかさは、足音の主を振り返ることも出来ない。
     ……つかさ。 こんなところにいたのか 」
耳に流れ込んでくる穏やかな声。
唯一、自分を確かにするもの。
つかさは涙に濡れた瞳を振り向けた。
「 あ。 とものりさん……! 」
思わず縋るように名を呼んだ。
「 つかさ? 探したよ 」
優しく微笑む、眼鏡の奥の瞳。
どうして? 怒ってないの?
こんな時間に出てきていること……。
「 いや……こないでっ 」
「 つかさ? 」
刹那、傷つくように揺れた深く済んだ自分自分を映す中浦の瞳に、つかさはずきん、と痛んだ胸を押さえた。
本当は、あの腕に触れてもらいたいのに。
「 どうしたんだ、つかさ 」
「 ごめんなさい ごめんなさいっ きらわないで……っ 」
耳を塞いで小さく叫びながら首を振る少年に、中浦は訳が分からなくて歩を進める。
つかさの肩がびくりと震えた。
「 つかさ? 」
     ……とものりさん 」
ほとんど聴こえないくらいに掠れた声に、中浦は痛そうに眼を細めた。
( 何をそんなに怯えているんだ、つかさ )
震える肩に、中浦の手が触れた。
「 とものりさん…… 」
「 つかあさ。いつからここにいたんだ? すっかり冷えているじゃないか 」
幼い肩を抱き寄せる。
「 なにを泣いているのかな? 」
甘く優しい声に、つかさは潤んだ瞳で中浦を見上げた。 綺麗な長い指がそっと目許を拭う。
「 学校で何かあったのかい? 」
中浦の問いに、つかさは小刻みに首を振った。
「 じゃあ どうしたのかな? 」
「 ……………なにも 」
囁きにも似た応えに、中浦はずきりと鈍い痛みを覚える。
どうしてこの少年は、何よりも大切な愛しい少年はこんな眼をする。
「 私にも言えないようなことなのか? つかさ 」
切なげに声を低めた中浦に、つかさはきゅっと唇を噛み締めた。
言える訳がない。
愛して欲しいなんて。 自分の全てを、あの君の悪い姿までを愛して欲しいなんて。
あまりにも大切で、だからこそ不安で不安で仕方なくて。
温かい腕に、つかさはきゅうと絡みついた。
珍しく触れてくる つかさを、中浦は静かに抱きしめる。
失いたくない。
そう思った。 手を離したら消えてしまいそうで、腕の中に閉じ込めておきたくなる。
口接けたい、と衝動的に想う。
「 つかさ 」
名を呼ぶ声が震える吐息となる。
中浦はそっと躰を離した。 理性で衝動を抑え込む。
「 帰ろう、つかさ 」
     はい 」
促され、小さく頷いて つかさは立ち上がった。 瞬間ふらついた躰を、中浦の腕が咄嗟に支える。
「 あ。 ごめん、なさい 」
「 何故謝るのかな? 」
       
「 あやまることなんてないんだよ、つかさ。私のこの腕は、つかさを護るためにあるのだから 」
「 智律さん 」
見上げてくる、何処までも綺麗な瞳。 穢れを知らない、透明な魂。
何に引き換えても護りたい者。
中浦は限りなく優しく微笑み、つかさの背を押した。





   神様は見ていて下さる。
   私たちの全ての行いを。
   導いて下さる。
   過ちを犯さぬように。

   大切な 『 モノ 』 を護る力を、つかさを護る力を、私にお与え下さい。


狂うほどに長い夜を、神の唄声が渡っていく。